コンピューターの歴史を語る上で欠かすことのできない存在の一人がジョン・フォン・ノイマンだ。博覧強記の数学者だった彼の業績は多岐にわたり、コンピューターの動作原理を確立しただけなく、ゲーム理論の成立や原子爆弾の開発などにも貢献した。
また、コンピューターモデルやロボットで生命をシミュレートする「人工生命」の可能性を見出した一人としても知られている。
ここに挙げただけでも、ノイマンの果たした偉業の“すごさ”というのが伝わるかと思うが、その人物像はまさに“事実は小説より奇なり”を体現している。
例えば、幼児期から抜群の記憶力を発揮し、電話帳の開いたページに書かれていた番号を一瞬で覚え、その上書かれている電話番号の総和を暗算で求めた、だとか、6歳で古典ギリシャ語をマスターし、父親と冗談を交わしながら古典ギリシャ語がわからない他の家族を煙に巻いた、だとか…。
極め付けには、11歳のノイマンに数学を教えに来た数学者のガブリエル・セゲーの前で大学数学の問題を解いてみせ、その解法の鮮やかさにセゲーは感動して涙を流したという逸話まであり、その突出した天才っぷりを語るエピソードは枚挙にいとまがない。
今回は、20世紀の科学史に大きな影響を与えたノイマンの伝説の数々とその業績の光と闇に迫る。
ジョニーは小さな大天才。天才数学者の幼少期
見たものを一瞬で記憶し、鮮やかな発想力で歴史的な難問に挑む…。そんな数学者のイメージは、内向的で気難しく人嫌い、というのが定石だが、ハンガリーの上流階級の家庭で生まれ育ったジョンは意外にも社交的で自信たっぷり。また、すけべオヤジな一面も持ち合わせており、ジョンの秘書など共に働く女性たちはスカートに目張りをして覗かれるのを防いでいたという逸話もあるほど。
言い争いがはじまろうものなら得意の記憶力で溜め込んだ小話やジョークでするりと交わすなんて一面も持ち合わせており、アメリカに移住して以降、周囲からはジョニーという愛称で呼ばれていたそうだ。
1915年にハンガリーのブタペストのユダヤ人資産家の家系で生まれたジョンは、幼少期から複数の家庭教師のもと様々な英才教育を受けていた。特に父親、マックスの意向で語学には力を入れており、幼児期から、ハンガリー語、ドイツ語、フランス語の英才教育を受け、さらに教養として、英語、イタリア語、ギリシャ語、ラテン語なども習得していたという。
ただ、運動や音楽の分野はからきしだったようで、フェンシング専門の教師を呼んだり、ピアノやチェロを習わせたそうだが、どれだけ打てど響かず、フェンシングの教師は根負け。音楽の授業を真面目に受けているかと思うと譜面台に本を隠し置き、楽器の練習するふりをして読書に没頭していたなんて話もあるほど。
エリート一家のおぼっちゃんとして様々な学問の端緒に触れた幼少期のジョンをとりわけ魅了したのが、数学と歴史だった。
素数や自然数など数字の性質の面白さに早々に気づいたジョンは、8歳の時には微分積分をマスター。数学書を介し、数学の奥深さにどんどんと引き込まれていった。
また、歴史書も好んで読み、特に全44巻からなるドイツの歴史家、ウィルヘルム・オンケンの『世界史』は大のお気に入りだったそう。渡米後には、特に気に入っていた南北戦争に関する章を古戦場の前で空で暗唱したという。
歴史書で培った知識を生かし、博物館デートなどの際は、専門家顔負けの詳細な解説で意中の女性を喜ばせていた、なんてエピソードもある。
抜きん出た才能を支援し、さらに伸ばす。年功序列にとらわれないエリート教育
“小さな大天才”ジョンは、10歳になるとブタペストのエリート養成学校ルーテル・ギムナジウムに進学。相変わらず音楽と運動は苦手だったそうだが、それ以外の科目ではトップの成績を収めていたそうで、若き才能がひしめく中でも頭一つ抜きん出ていたという。
そして、幸運なことに、ギムナジウムには、“異例”とも言えるジョンの才能を受け入れ、支援する環境が整っていたのだ。
特にギムナジウムの校長で数学を専攻していたラースロー・ラーツは、ジョンの数学への深い理解と好奇心を前にジョンの両親に以下のように直談判した。
「御子息にギムナジウムの数学を教えることは罪悪であり、大学レベルの数学を教えるべきです」
高橋昌一郎『ノイマン・ゲーデル・チューリング』
こうして、校長はノイマンをブダペスト大学数学科の教授陣に引き合わせ、その中から特別講師を招致した。この講師というのが数学者のガブリエル・セゲーで、冒頭の「涙を流した」エピソードにつながる。
そして、教師陣だけでなく、彼の級友も素晴らしかった。特に、ジョンが終生交友関係を大切にしていたのが、一学年上にいたユージン・ウィグナーだ。ウィグナーは、のちに優秀な物理学者となり、1963年には「原子核と素粒子の理論における対称性の発見」でノーベル物理学賞を受賞した。
そんなウィグナーもジョンの頭脳には舌を巻いており、のちに「なぜ当時のブダペストからは天才が次々生まれたのか?」という質問を受けこう答えたという。
「その質問は的外れだよ。なぜなら天才と呼べるのはただ一人。ジョン・フォン・ノイマンだけだからね!」
高橋昌一郎『ノイマン・ゲーデル・チューリング』
こうして、ギムナジウムの仲間たちや教師陣に支えられ、在学中の17歳の時には初めての数学の論文を発表。優秀な成績を残し、首席で学校を卒業した。
輝かしい光と深く刻まれた影