この数十年、わたし達は幾度となく、アラン・チューリングを“再発見”している。
例えば、1966年。Association for Computing Machinery(通称、ACM)がコンピューター科学の分野で功績を残したものに与える賞を「チューリング賞」と名付けたとき。
例えば、1986年。アラン・チューリングの生涯が描かれた戯曲『ブレイキング・ザ・コード』がブロードウェイで公開されたとき。
例えば、2011年。アメリカ大統領のバラク・オバマが演説の中で、「科学に貢献したイギリス人」としてダーウィン、ニュートンと並べ、アラン・チューリングの名前をあげたとき。
そして、今年。イギリスの新50ポンド札の「顔」として選ばれたのも、アラン・チューリングだ。
歴史的偉人としての認知だけでなく、彼の残した研究成果もまた、技術発展とともに再評価が進んでいる。
彼の名前が話題に上がるたび、ひとり、またひとりとアラン・チューリングや彼の残した業績の価値を“発見”していく。
しかし、裏を返せば、死後半世紀以上が経った今なお、彼は“発見”されてしまうほど知られていないということになる。
もちろん、テック業界では、彼の名前を知らない、聞いたことがない、なんて人の方が少ないだろう。だが、一般的には、彼の名前はまだ十分に知られているとは言い難い。
実際、Google検索で、Darwin、Newton、と検索するとそれぞれ、3億6800万件、3億4800万件の検索結果が叩き出されるが、Turingで検索した結果は2790万件。文字通り、ケタ違いの差があるのだ。
Google検索の結果(2019年8月20日)
街を歩くほとんどの人が「コンピューター」を片手に持ち、AIという言葉が広く使われているのに、「コンピューター科学やAIの父」とまで呼ばれるアラン・チューリングは“知る人ぞ知る”存在にとどまっている。
間違いなくこの世界の在りようを大きく変えたはずの彼の業績とそれに反する認知度の低さ。その歪さの裏には、彼の“先見すぎた明”と“数奇な運命”があった。
人工知能の“あまりに早すぎる”先駆者としてのアラン・チューリング
※画像はイメージです
アラン・チューリングの功績の中で、最も有名なのは、ドイツ軍が秘密通信に使っていたエニグマ暗号の解読における貢献だろう。
アランは、総当たり攻撃で暗号を解読する「チューリングボンベ」の開発をし、解読不可能、と言われていたエニグマをやぶった。エニグマの解読は、第二次世界大戦の終了を2年以上早め、1400万人以上の命を救ったともいわれている。
また、彼はコンピューターの基本モデルとなる「チューリングマシン」を作り出し、“コンピューター科学の創始者”としても知られている。
そして、様々な業績の中で、近年、特に注目が高まっているのが、「人工知能」の領域における彼の成果だ。アランは、人工知能の可能性について最も早い段階で論じた一人なのだ。
1950年、アランは論文「Computing Machinery and Intelligence(邦題:計算機械と知能)」にて、のちにチューリングテストという名前で知られることになるイミテーションゲーム(模倣ゲーム)を提案した。このゲームは、男性、女性、それぞれ一人ずつと質問者の三人一組で行う。三人は別室におり、質問者は様々な質問をすることで、回答者の性別を当てる、というもの。コンピューターと人間の類似性を科学的に評価するこのゲームは、形を変えて今では人工知能と人間を判別するためのテストとして広く用いられている。
さらにアランは同じ論文の中でコンピューターについて以下のような予言を残している。
これから五〇年程度の時間で、一〇の九乗ほどの記憶容量をもつ計算機をプログラムして、その計算機に平均的な質問者が五分間質問した後に、七〇パーセントの確率で正しい性別の判断を出すことができないような模倣ゲームをやらせることは可能になるだろう。もともとの疑問、「機械は思考できるか?」は意味がなさすぎて議論に値しないと思う。しかし、今世紀の終わりには言葉の使い方や一般的教育状況がかなり変化して、機械が思考しても矛盾があるとは感じられなくなることを信じる。
アンドルー・ホッジス(土屋 俊・土屋 希和子 訳)『エニグマ アラン・チューリング伝』
このアランの予言は概ね当たっていると言えるだろう。現在、メインメモリが10GBを超えるパソコンはざらに存在するし、2013年には、チューリングテストを受けたロシアのチャットボットが審査員の30%以上から人間だと判断された。
一方で、「機械は思考するのか?」という問いは、未だ大きな謎として私たちの前に立ちはだかっている。
コンピューターの歴史において黎明期といえる1950年代に、アランはなぜ「思考する機械」、今でいうところの「人工知能」に思いを巡らせるようになったのか?
その答えを考えるためには、アランの幼少期までさかのぼる必要があるだろう。
次ページ:アラン・チューリングが描いた「機械としての身体」という夢
機械としての身体から魂の初恋へ
もちろん、身体は機械だ。それもかなり複雑な機械で、これまで人の手で作られたどんな機械より何倍も複雑だ。しかし、やはり一つの機械だ。蒸気エンジンに例えられたことがあるが、今ほどその仕組みについて知られていない昔のことだ。実際にはガソリンエンジン、つまり車、モーターボート、空を飛ぶ機械のエンジンに似ている。
エドウィン・テニイ・ブルースター『Natural Wonders Every Child Should Know』(邦訳はアンドルー・ホッジス(土屋 俊・土屋 希和子 訳)『エニグマ アラン・チューリング伝』に準ずる)
アラン・チューリングは1912年6月、ロンドンにて生まれた。両親は、当時イギリス統治下にあったインド行政府に勤めていたジュリアス・チューリングとその妻、エセル・ストーニーだ。
アランと兄のジョンは、インドとイギリスを往来する両親に変わり、父親の友人で退役軍人だったウォード大佐夫妻によってのびのびと育てられた。
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夢見がちで内気だったアラン少年が機械と生命の可能性に目を向けるようになったきっかけに一冊の児童書がある。
それが、『Natural Wonders Every Child Should Know(邦題:すべての子どもが知るべき自然の不思議)』だ。
性と身体についての科学的な知識がつめこまれたこの本が、アランにはじめて「科学」というものの存在を突きつけた。さらに、この本で描かれた「身体は機械である」という唯物論的発想は、アランに人生にたびたび顔を出すこととなる。
アランは14歳でパブリック・スクール(私立の中等教育学校)であるシャーボーン校に進学すると、運命の出会いを果たした。一年次上のクリストファー・モーコムに恋をしたのだ。
これがアランの初恋だった。
内気な性分ながらも、数学をきっかけにクリストファーと親交を深めるようになったアランの思いは募る一方だった。
しかし、彼の初恋は、突然に終わりを迎えた。
1930年2月、クリストファーが幼少期に感染した牛結核による内臓疾患が原因で亡くなったのだ。
失意の中でアランは母親に「モーコムにまたどこかできっと会うことができる」という内容を記した手紙を送っている。つまり、この時点において、アランは「身体は機械である」という考え方から離れ、死後の世界や魂のようなものの存在を信じていたのだろう。
再び機械としての身体へ
ケンブリッジ大学キングス・カレッジに進学すると、アランは数学の領域で頭角を表すようになる。そして、「計算可能数」についての論文を執筆する中で、この世界のありとあらゆる機械の作業を代替できる普遍的機械について考えるようになる。
この普遍的機械においては、人間というコンピューター(計算する人)もまた、再現可能なのだ。
テープの上におかれたほかの機械の記述を読むことによって人間の心的活動と同等の活動を遂行できる単一の機械が存在しうる。一台の機械、人間であるコンピューターに取ってかわる!電気脳だ!
アンドルー・ホッジス(土屋 俊・土屋 希和子 訳)『エニグマ アラン・チューリング伝』
この頃から、アランは『すべての子どもが知るべき自然の不思議』に書かれていた通り、人間を機械とみる唯物論的解釈を支持するようになり、無神論者として知られるようになった。これは同時に、クリストファー・モーコムの魂との永遠の別離を意味した。
クリストファーへの慕情すら、科学の前で無力だったのだ。
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『すべての子どもが知るべき自然の不思議』が育んだ機械としての身体、機械としての生物への関心は、アランの研究人生とそれに続く様々な科学分野に大きな影響を与えた。
例えば、論文「計算機械と知能」を発表した頃からアランが取り組んでいた生物の形態解析。彼は、アメリカのマンチェスター大学に設置された電気機械式計算機Mark-I コンピューターを駆使して、生物の外形のメカニズムを解き明かすべく、日夜解析していた。この研究はのちに「人工生命」と呼ばれる分野の端緒を開くこととなる。
チューリングが残したもの
ここで最初の目的に立ち返り、アラン・チューリングの功績を歴史に埋もれさせた“数奇な運命”について触れていく。
第二次世界大戦中にエニグマ暗号解読に注力したアランだが、大戦後、彼の業績は一部の人間を除き秘匿されることとなった。その背景には、“解読不能の暗号の解読”という仕事の性質と、大戦後、まだまだ不安定な情勢があった。つまり、いつまた戦争が起こるかわからない状況で、手元のカードを見せる道理はない、というわけだ。
そうした中で、1952年、アランの家に泥棒が入った。その泥棒の手引きをしたのが、19歳のアーノルド・マレーだった。マレーは、アランと肉体関係にあった。
当時、イギリスでは、同性同士の性行為は違法とされており、窃盗の捜査の過程でマレーとの関係が暴かれたアラン自身もこの事件がきっかけで逮捕されることになった。
その後の裁判で、収監されるか、化学的療法によって同性愛を“治療”するのかの二択を迫られたアランは後者の選択を選んだ。
裁判の渦中で、アランが友人に送った手紙の中で以下のようなことを書いていた。
この先、次の三段論法を使う人びとが現れるのではないか少し心配している。
チューリングは機械が考えると信じる
チューリングは男と寝る
だから、機械は考えない
アンドルー・ホッジス(土屋 俊・土屋 希和子 訳)『エニグマ アラン・チューリング伝』
アランは、窮地の中にあっても思考する機械に想いを馳せていたのだ。
犯罪者という汚名を着せられ、家族にも明かせない空白の経歴を持ったアランに、“ソ連のスパイだ”という根も葉もない噂や、当時、「パンジー」という蔑称で呼ばれた同性愛者に対する好奇の視線が付きまとうようになる。
そして、事件から2年後の1954年、自宅のベッドの上で変わり果てたアランの姿を家政婦が発見する。
アラン・チューリング、41歳、自殺だった。
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アランは晩年、こんなことを書き残していた。
「それがまさに近いところにあるものしか見えないが、それでもやるべきことが山のようにある」
B・ジャック・コープランド(訳 服部桂)『チューリング 情報時代のパイオニア』
チューリングの残した「やるべきこと」を実現するために、これからもわたし達は彼を“再発見”していくだろう。
参考引用文献・サイト