ちょっとした運転ミスがきっかけで、歩行者の命が奪われる。
そんな痛ましい交通事故が起こるたびに議論に上るのが、「自動運転車」の運用だ。
ルールを遵守し、とっさの状況判断も人間より正確にできるAIを搭載した自律型の自動車は、その利便性や安全性を期待され、1980年代に開発が始まり、2010年代には公道での走行実験が欧米を中心に行われるようになった。
自動運転車のレベル分けとその課題
一口に自動運転車と言っても、採用している自動化運転システムによって自律性や機能性は全く異なる。そこで、日本政府やアメリカ運輸省道路交通安全局 (NHTSA)が採用しているのがアメリカの非営利団体、SAE Internationalが定めるj3016という規格だ。
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この規格では、自動車を自動運転能力別に以下の0〜5のレベルに分類している。
- レベル0:運転自動化なし
- レベル1:運転支援
システムは車間距離の調整や車線のはみ出し修正など、縦方向か横方向のどちらかについて運転を限定的に制御できるが、基本的な運転タスクは運転者が行う
- レベル2:部分的運転自動化
システムは車間距離の調整や車線のはみ出し修正など、縦方向と横方向について運転を限定的に制御できるが、基本的な運転タスクはドライバーが行う
- レベル3:条件付運転自動化
特定の場所において、自動化運転システムが運転タスクを全て行う。しかし、自動化運転システムの動作中に緊急事態が発生した場合やシステムに不具合が生じた場合は、ドライバーが対応する
- レベル4:高度付運転自動化
特定の場所において、自動化運転システムが運転タスクを全て行う。また、動化運転システムの動作中に緊急事態が発生した場合もその対応をシステムが行うため、ドライバーの介入を必要としない。
- レベル5:完全運転自動化
全ての場所で、自動化運転システムが運転タスクを行う。また、動化運転システムの動作中に緊急事態が発生した場合もその対応をシステムが行うため、ドライバーの介入を必要としない。
現時点で市販されているのはレベル3の自動運転車。また、日本においては、市販の乗用車に搭載できるシステムのレベルはレベル2までしか認可されていない。
その背景には、法整備の不足があげられる。
また、過去には自動運転車による死亡事故も複数回確認されているため、自動運転車の安全性に対する人々の不安も大きいことも自動運転のレベルが高い自動車の認可におけるハードルの一つだろう。
ヒューマン・エラーでの事故を目の前にすると「安全性のために自動運転車が必要だ」と議論する私たちは、しかし、自動運転車の認可についても「安全性」を武器に反対する。
拭い去れない葛藤を抱えながら、私たちは自動運転車の実用化をどう進めればいいのだろう?
自動運転車が起こした事故の責任は誰が取る?哲学者による議論とフィクションが提示した可能性
事故を起こしたとき、まず問題となるは、責任の置きどころだ。
では、自動運転車が事故を起こした場合は、誰が責任を取れば良いか、を考えてみよう。
自動車を持っている持ち主?それとも運転手?はたまた、自動車を作ったメーカー?
もちろん、自動化運転システム(AI)に責任を持たせる、という議論もある。
例えば、哲学者、岡本裕一朗氏の著作『答えのない世界に立ち向かう哲学講座 AI・バイオサイエンス・資本主義の未来』では、ゲストに、ロボット法学者の赤坂亮太氏を迎えた講義録「AIの責任論」の中で、法的責任と賠償責任を分離した制度が提案の一つとして出されている。ここで議論された法的責任と賠償責任を分離した制度とは、賠償を社会補償でまかない、法的責任をAIに取らせるというもの。
ここで、岡本氏は、近代法自体を見直す必要を示唆した。
人間が運転して事故を起こすという話ではなくなるとすれば、そもそも責任をとること自体があまり意味をなさなくなる問題設定のような気がするんです。責任とは、個人が判断して事故を起こすときに問題になるわけですから。そうすると最初から、それとは違う事故の処理のしかたとか、救済のしかたを考えていかなければいけないと思います。法学という近代的な概念そのものを変える必要があるのではないでしょうか。
岡本裕一朗『答えのない世界に立ち向かう哲学講座 AI・バイオサイエンス・資本主義の未来』
また、赤坂氏は、中世ヨーロッパで実際に行われていた動物裁判(人を殺した動物を裁く裁判)や、法人格を例に挙げ、近代法の延長線上でAIに責任を問う、という可能性を提示し、その場合は、AIの権利についても考える必要がある、と論じた。
一方で、「事故の責任の置き所すらAIによる判定に任せる」という発想で描かれたSF作品も存在する。それが、「天駆せよ法勝寺」で創元SF短編賞受賞し、注目を集める気鋭のSF作家、八島游舷氏の『Final Anchors』だ。今作は、第5回日経「星新一賞」でグランプリを獲得した作品でもある。
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今作で描かれるのは、レベル5の自動運転車が実用化されて40年経った近未来のアメリカ。ここでは、ほとんどの車が自動運転化され、自動車に搭載された高性能のAIは、事故発生の1秒前に危険を察知すれば、事故を回避できる能力を持っていた。
しかし、主人公である、AI、ルリハが搭載された自動車には、AIによる操作を一部制御する「鎮静剤(ダウナー)」と呼ばれる違法器具をが導入されていたため、ルリハは事故発生の0.5秒前までその危険性を認知できなかった。
このように事故が避けられない状況で行われるのが「AI調停」だ。
事故の”当事車”となるAI同士で互いの運転手の過失や被害を最小に抑える方法について話し合う。
この時、AIたちにはアバターが与えられ、仮想空間で行われる法廷を動画として記録することで、のちに人間が行う交通裁判で重要な資料として活用される、というわけだ。
さらに、事故の被害を最小に抑える為の機能が、「ファイナル・アンカー」と呼ばれる自動車緊急停止のための杭だ。「ファイナル・アンカー」を発動すれば、前方に衝突することを回避できるが、緊急停止の反動はエアバックのエネルギー吸収量を上回るため、運転者および車載AIは破壊される、という仕組みだ。
ブレーキでの制動が不可能な状況下では、ファイナル・アンカーは、車対歩行者の場合は、必ず起動する。車は停止し、交通弱者は守られる。問題は、複数のAI車の衝突が避けられない場合、どちらがファイナル・アンカーを打つかである。
八島游舷『Final Anchors』
誰が「ファイナル・アンカー」を打つのか、AIたちは様々なデータを参考に“客観的”に決めていく。
暗中模索の自動運転車に対する法体系において、責任が生じる前に責任を取る、という再帰的なこのシステムにある種の説得力を感じてしまうのは私だけだろうか?
フィクションを摂取することが現実を変えていく
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「完璧な自動運転車」が実用化された未来でどんな法体系が取られるのか、を知るものは現時点では存在しないが、それが「今、私たちが考えていること」の影響を受けているようなものである可能性は非常に高い。
例え、「完璧な自動運転車」が私が生きている間に実用化できないものであったとしても、私たちの考えがそこに反映されるとしたら、やはりきちんと考えなくてはいけないな、という責任を私は感じてしまうのだ(自意識過剰かもしれないが)。
そして、自律型のロボットと人間の共生の黎明期である今、自動運転車の問題のように、私たちが考えなくてはならない問題は多岐に渡る。そして、そのどれもが答えのない問いだ。
そうした中で、八島氏の『Final Anchors』で描かれたAI調停が、未来の可能性の一つとしての説得力を持って私に迫ってきたように、フィクションの発想がリアルの課題を解決する可能性を提示することは多々あることだ。
答えのない問いを希求するからこそ、現実の課題のみではなく、フィクションにも目を向けてみる、ということはきっと、無駄ではないだろう。
いや、むしろ人々が小説を読んだり、映画を見たりすることが、巡り巡って現実社会を変えていくのかもしれない。
参考サイト
自動運転車 - Wikipedia