火星の「帝王」が作り上げた情報網の中で
今回取り上げるのは、「帝王の殻」(神林長平/ハヤカワ文庫 1990年)である。SFファンにとっては絶対必読の一冊なので、読者の中にも読んだことのある人は多いだろう。
そして、読んだことがあればこれから私が書こうとしていることが何となく分かってしまうのではないかと思う。たぶん、その予想の通りだがマーケティングなどと絡めた考察をしようと思っているのであと600文字ほど我慢して読んでみてほしい。
さて、まずは本作を未読の方に向けて概要を説明しよう。
舞台は近未来の火星。ストーリーはその火星を「帝王」として事実上支配している秋沙能研(あいさのうけん)の能研長、秋沙享臣が亡くなるところから始まる。火星の北半球には秋沙能研によって整備された「アイサネット」と呼ばれるネットワークが引かれ、人々はアイサネットと接続されたPAB(=Personal Artificial Brain/パーソナル人工脳)を持っている。これは自分自身の脳の完全なクローンAIを搭載した銀色のボールで、副脳とも呼ばれている。
これと会話 ――つまり自分自身との会話を通じて人々は心の平静を得たり、また自分の代わりに誰かと会話させたり、自分自身の脳では覚えきれない記録を引き出したりしながら生活し、死ねば「不滅霊園」にPABが葬られる。
つまり、火星に住む人類の半分は秋沙能研のネットワークに依存しており、これが秋沙能研の能研長を「帝王」たらしめる理由である。
その帝王の遺言は2つ。帝王の孫である真人をつぎの帝王にすること。そして死後も自分のPABは不滅霊園に安置せず、生かしておくこと…。
つまり、タイトルである「帝王の殻」というのは先代が法を超越してまで残した彼のPABのことである。
死してなお帝国を支配する父、次代の帝王となる息子の間で揺れる主人公の葛藤、そしてPABとアイサネットを中心に繰り広げられるディストピア(と言っていいだろう)SF的な展開が魅力の一冊だ。
スマホという形で現代人はすでに「PAB」を持っているのではないか?
本作を未読の読者でも、あらすじを読んで私の言いたいことがわかってしまっただろう。そう、この作品 ――30年近く前に描かれたこの作品に登場する「PAB」はスマホの姿にとても似ている。
SiriやGoogle Assistantの登場でスマホは必ずしもコミュニケーションツールではなくなった。ぎこちないが冗談にも応じてくれるし「近くのタコベルはどこ?」と聞けば経路案内に合わせて営業時間も教えてくれる。
また、iOSもAndroidもヘルスケア系のAIツールが標準で付属し、1日の運動量の目安を計算して達成すれば褒めてもくれる。
まさにPABのような「人生の伴侶」となりつつあるスマホだが、大きな違いはPABが「自分自身のコピー」だということだろう。
冒頭での約束通り、ここからはマーケティングの可能性を絡めた考察を書いていく。
いかに信頼を獲得するか