子どもを産んだ後、何もかも聞いていないことだらけで驚いた。
身体中が痛くて眠れず、体力も判断力も奪われた私は、乳を出すロボットと化した。子どもが泣けば、オムツ替えと授乳をして寝るまであやす。それでいて心まで機械になりきることができなくて、育児や家事の不行き届きが悲しくて泣いた。
小さな命を生かすこと、を24時間365日続けることは、ただそれだけでしんどくて辛い。しかし、一旦外の社会に出ると、「生かすこと」だけでなくて「グズらないか」、「行儀が良いか」、「マナーがなっているか」など様々なフィルターを通過した「完璧な子ども」が求められ、その鏡像として私は「完璧な親」としての振る舞いを求められる。
電車で子どもが泣いたら目に見えるように必死にあやす。子どもが椅子で変な座り方をしていたらすかさずただす。
当たり前のことを当たり前にやる。
その程度のことが、ずっしりと重くのしかかる。
いっそのこと、機械のように、規範的で完璧な「親」になれたらばいいのに。そう思ったことは数えきれない。
完璧な「母親」ロボットによる育児
余計なことはせず、嫌味を言わず、なんの罪悪感もなく、子どもを託せる存在としての“育児ロボット”は、ほとんどの親にとってまさに夢のような存在だろう。
Netflixで配信中のSF映画『アイ・アム・マザー』では、まさにそんな“育児ロボット”が登場する。
今作は豪米合作で制作され、2019年に公開された。日本では劇場公開に至らなかったものの、アメリカの批評サイト「Rotten Tomatoes」では、支持率90%と高い評価を得ている。
主演の一人を務めたのは『ボーイズ・ドント・クライ』と『ミリオンダラー・ベイビー』でアカデミー主演女優賞を受賞したヒラリー・スワンク。
舞台は人類滅亡直後の全自動人類再増殖施設。人工知能を搭載したロボット「ドロイド」が一人の少女を育てている。
母親としてのドロイドは、少女に子守唄を聞かせ、本を読み聞かせ、共に工作をする。そして、少女が成長すると、哲学から倫理学、そして工学まで高等な教育を施すようになる。
ドロイドに育てられた娘は素直に、そして聡明に成長した。
一見、完璧に見えるロボットによる育児。しかし、物語が進むにつれて、ドロイドの母親による育児の歪みが明らかになる。
きっかけは、施設の外に興味を持っていた少女の前に外の世界から施設に侵入した女が現れたことだった。少女は女に「ドロイドが人間を殺している」と伝えられ、自分の母親に疑念を抱くようになる。
ロボットの母親と人間の娘の平穏な生活は一変し、徐々に母親の育児の目的が明らかになる。それは「人類を作り直すこと」だった。
そして「正しい人類」を作り出すために、ドロイドは、「正しい母親」になる子どもを育てており、過去には「正しくない」子どもを切り捨て、殺害していたことを示唆したのだ。
ドロイドにはできない人間の教育
あのロボットはあなたのことをなんとも思っていない。感情がないの。
『アイ・アム・マザー』
たった一つの目的に向かって遂行されるロボットの育児は、多くの人にとって冷酷で異質なものに見えるだろう。一方で、「正しい母親」を作ることを自分の手で行なったドロイドは、しかし、「正しい人間」を作ることはなかった。そして、人間である娘に「正しい人間」の育児を託したのだ。
では、ロボットが手放し、人間にしかできないであろう「人間」の育児とはなんなのだろうか?
「子ども」を発見したことで知られる18世紀のフランスの哲学者、思想家のジャン=ジャック・ルソーが自身の教育論を記した著書『エミール』は以上のような導入からはじまる。
万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる。人間はある土地にほかの土地の産物をつくらせたり、ある木にほかの木の実をならせたりする。
-中略-
しかし、そういうことがなければ、すべてはもっと悪くなるのであって、わたしたち人間は中途半端にされることを望まない。こんにちのような状態にあっては、生まれたときから他の人々のなかにほうりだされている人間は、だれよりもゆがんだ人間になるだろう。
偏見、権威、必然、実例、わたしたちをおさえつけているいっさいの社会制度がその人の自然をしめころし、そのかわりに、なんにももたらさないことになるだろう。自然はたまたま道のまんなかに生えた小さな木のように、通行人に踏みつけられ、あらゆる方向に折り曲げられて、まもなく枯れてしまうだろう。ジャン=ジャック・ルソー(今野 一雄 訳)『エミール』
育児をする中で、親の都合に合わせて子どもの振る舞いを強要する、ということを免れることは難しい。
しかし、何もしないでいると、それ以上に悪い結果をもたらすだろう、ということを示唆する文章を冒頭に置く『エミール』では、子どもの育児・教育に必要な三つの要素を掲げている。
一つは人間の能力や身体器官の内部発展に伴う自然の教育、この発展をいかに利用するかを教える人間の教育、人間が経験によって獲得する事物の教育だ。
そして、この三つの要素を組み合わせることで、社会的身分にとらわれず、自分を評価する軸を持ちながら、他者と生きる公共性を持つことができるようになるとしている。
一方、『エミール』の中でルソーは母親たちに対しては、子どもを愛し、自らの手で育むことを自然が命じる義務として提示している。
母親がすすんで子どもを自分で育てることになれば、風儀はひとりでに改まり、自然の感情がすべての人の心によみがえってくる。国は人口がふえてくる。
ジャン=ジャック・ルソー(今野 一雄 訳)『エミール 』
自分を一個の人間として認めながら他者と共感して生きていく、という人間の在り方を正しいと仮定するならば、「人間を育てる」という作業は、子どもの個性や自由よりも、目的に向かって規範的に行動することを優先するドロイドにとって荷が重い仕事だっただろう。
一方で、子どもを愛し育む、という唯一の義務を与えられた母親の育成は、さほど難しい要求ではなかったのかもしれない。
自然の秩序のもとでは、人間はみな平等であって、その共通の天職は人間であることだ
ジャン=ジャック・ルソー(今野 一雄 訳)『エミール』
母親だって人間なのだ
ルソーは、育児を母親の義務として提示したが、時代が変わり、今や、「母親」も「人間」としての在り方を探求できるようになってきている。何より、母親だけが育児に奔走しても人の心は豊かにならないし、国の人口は減っていく一方であることにも私たちは気づいている。
そうした状況の中で、育児を目的とした人工知能ロボットの実用化は、多くの人々にとって救世主のような存在になるだろう。実際に、現段階で人工知能による育児が子どもに与える影響の検証もはじまっている。
テクノロジーの発展を単なる便利な道具の登場とだけ捉えるのではなく、人間が人間を育てることの意味を私たちに再考させてくれるきっかけとしても捉えることができれば、育児や教育、そして親を取り巻く環境が大きく改善されるだろう。
そして、考え、生きる、その手引きとして、フィクション作品は、きっとあなたの役に立ってくれると信じている。